Rikuzentakata City Community Hall 陸前高田市コミュニティホール

中山 勝貴(設計部 設計統括) / 宮崎 美樹(設計部) / 御供 秀一郎(設計部)

復興の希望と、使い勝手のよさをデザインする。

始まりはシンガポールからの寄付。

東日本大震災のときは、日本のみならず、世界各地で寄付が集められた。シンガポールもそんな国のひとつだ。しかし寄付の届け方が他の国とは異なった。設計部の中山はプロジェクトスタートのきっかけをこう説明する。「シンガポールの赤十字から寄付を届けたいけれど、日本の赤十字や行政にわたすのではなく、できれば目に見えるカタチ、もっと具体的に言うと自分たちの寄付がどのような復興支援になったかわかるようにしたいという要望があったのです。そんなとき、震災後の夏に、「Aid TAKATA」という非営利団体が、陸前高田市の惨状を伝える写真展を東京で開催しました。その写真展にシンガポールの公使がお越しになって、それを機にシンガポールと陸前高田の市長がつながりました。今、一番欲しい物は何ですかというシンガポール公使の問いに、市長は人が集まる場所が欲しいと答えました。やっと仮設住宅は建ったけれど、コミュニティを生み出す場所は、まだなかったのです」

シンガポールからの推薦で
設計を担当する。

市長からの提案をシンガポール側は了承した。シンガポールで集まった寄付をその建設費に使ってもらおうと考えた。その建設にあたって丹下都市建築設計を推薦したのはシンガポールからだったと中山は言う。「弊社はシンガポールでの仕事をたくさんしてきましたから信頼があったのでしょう。その提案に陸前高田市サイドも了承してくださり、弊社がそのプロジェクトを担当することになりました」

使い勝手のいい建物をめざす。

シンガポールからの善意からスタートしたプロジェクト。必要とされているのは、デザイン性よりも使い勝手のいい建物だと中山たちは考えた。「使い勝手といっても、建物の機能性だけに突き詰めたということではありません。震災後、この街では人が集える、公共の空間もありませんでした。大変なときこそ、人とのふれあいや会話が大切です。人とのつながりが心を癒し、明日への希望を見いだすものです。そのためには日常的に、ふらっと集える空間、構えることもなく気安く出かけることができる空間、そんな意味でも使い勝手のいい空間をめざしたのです」
もちろん設計においても使い勝手のよさは追求したと中山は付け加えた。「敷地内には多目的ホールと、会議室、和室、調理室などの施設を造ることになりました。私たちは、約400人も収容できる多目的ホールはそう頻繁に利用されることはないだろう。使われるのは会議室や和室が中心になるはずだから、ひとつの屋根の下に設計するとしても、このふたつの部分をはっきり分けることが市民のみなさんの使い勝手のよさに繋がるだろうと考えました。デザインもどの空間かひとめでわかるようにはっきりと分けました。また、ガラスを多用しているのは公園との一体感を演出する他に、外からでも建物の中にはどんな施設があるのか、誰がいるのか、何が行われているのかがわかるようにとの想いからです」
そんな中山たちの想いは間違っていなかったと実感する一言を地元の人からもいただいたという。「地元の喫茶店に入ったときのことです。店の方からあそこに何ができるのかと聞かれてコミュニティホールだと言うと、『それはありがたいわ。みんなが気軽に行ける、利用しやすい建物を造ってね』って言われたのです。子どもやお年寄り、外国人の方、誰にとっても使い勝手がいい施設だからこそずっと使ってもらえるんだと改めて確信しました」

海を感じる大切さをカタチにする。

陸前高田市コミュニティホールは海を見下ろす高台に建っている。このプロジェクトでも、丹下都市建築設計の「立地を活かして設計する」という考えが反映されていると中山は教えてくれる。「敷地はもともと山だったところの土を切り取り、造成して新しく造った土地です。海辺は津波の再来が心配という現実的な理由から避けたのですが、山の向こう側なら津波からは安全かもしれないけれど海を感じることはできません。陸前高田の人々はずっと海を感じて暮らしてきた背景があり、それではさみしいと思うのです。だから山の向こうにある建物でも海を意識できる設計にすることを考えました。たとえばその一つが公園のメインストリート。この道は山の向こうに広がる広田湾へ続く設計となっています」

震災後であること、地方であること。

シンガポール側には状況を頻繁に報告しながらプロジェクトは順調に進展した。しかし震災後の地方のプロジェクトならではの難しさ、復興ならではの不自由さもあったと中山は言う。「震災の後ということもあって、資材や人材などの値段がどんどん上がっていきました。それは予想外の上がり方で、だからといって予算をアップすることはできません。建築面積を減らしたり、プランも一部変更したところがあります。技術者が揃わないこともありました。加えて東京のプロジェクトなら比較的容易にできる施工も、被災地では人手の問題などで時間がかかることもありました。建築は夢を描く仕事ですが、その実現には常に現実という課題が立ちはだかります。特に寄付や復興予算をベースにしたプロジェクトなので、無駄のないようにどうやって完成させるかがキーとなります。震災後という時期、復興支援という役割、そして地方というロケーションが重なるとてもデリケートなプロジェクトであったことは確かです」

完成させる。そして続ける。
そこに意義があるプロジェクト。

だからといって中山を含め、丹下都市建築設計は投げだすことはなかった。むしろ逆で、中山たちは積極的に取り組むべきプロジェクトであると強く感じていた。「これもTANGE DNA+のひとつだと思います。戦後、丹下健三は広島平和記念資料館の設計を手がけました。辛い出来事は忘れてしまいたいものですが、センチメンタルな感情に流されず、残すべきものは残して次代へ伝えることも大切だと考えているからです。『陸前高田市コミュニティホール』のプロジェクトも同じだと思うのです。取り組む意義があるプロジェクトです。だからこそ続けることが大切。完成して終わりではなく、東日本大震災という出来事を風化させないための取り組みも今後は必要です。私たちは『陸前高田市コミュニティホール』のスタート時から、施工中も、そして完成してからも、この町の今後のマスタープランなどの提案をしてきました。『奇跡の一本松』から始まるマスタープランなどです。そしてこの提案はこれからも引き続き行っていこうと考えています。復興支援に終わりはないように、私たちの陸前高田への想いも終わることなく、よりよい街づくりのために提案はどんどん届けて、震災の出来事や教訓を風化させない町を地元の方といっしょに造り上げていきたいと考えています」
そんな中山たち丹下都市建築設計の想いは、陸前高田の人々に届いていると思われる。なぜなら今日も「陸前高田市コミュニティホール」には、市民の笑顔が行き交い、笑い声が響いているのだから。

陸前高田市コミュニティーホール